変わらないために、変わること
どうも、令和の研修医です。
さて、昨日参議院選挙が公示され、選挙戦がはじまっています。
政治家や政党の役割は、普段忙しくて国のことなんて考える暇のない国民に、考える土台を提供することだと思っています。
国民のみなさんには、選挙は、国のことを考える時間だと、思っていただきたい。
参議院選挙にあたって、争点というものがありまして、まあそれは多くの場合政策=ビジョンや今までの実績である(もちろんビジョンが全てではないが、やはりここは大事)わけですが、今回は憲法と皇室の議論について考えてみましょう。
「憲法は変えろ、皇室は変えるな」
という意見が主流です。果たしてこの考え方はあっているのでしょうか?
僕はこれだけだと60点だと思います。なぜなら、大筋はいいけれど、変えていいものと変えてはいけないものの区別が極めて恣意的に感じられ、考え方の軸がわからないからです。
本当は、両方とも「変えるか変えないかは別として、変えようとする議論をするべき」です。そもそも、現存する制度や法律の中で、変えようとしなくていいものなんてありません。
変わらなかったものは、議論を尽くした上で「変わらなかった」となるべきであって、何も考えない、変えようとしないのは単なる怠慢です。
すべてのものは、移り変わります。
昔の人はいいことを言っています。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」鴨長明
変わっていないように見えるものでも、日々変化しつづけています。
たとえば、私達の身体。細胞は日々死に、新しい細胞が生まれています。
1年たつと、1年前の細胞というのはほとんど身体の中にありません。
生き物というのは、そういうものなのです。
人は生き物。人が作った国も、また生き物。
変わり続けなければ、存続することはできない。
これは世の中の真理なのかもしれません。
そして、より長い間、存続しようとするならば、
世の中の流れに対して、よりフレキシブルにならないといけません。
嵐が来たとき、硬い街路樹の枝はポキポキ折れますね。
一方、竹やぶの笹の葉は風にさらさらと流れ、しなやかで折れにくい。
我々が目指すべきなのはどちらでしょう?もちろん後者ですね^^
よって、マスコミが事あるごとによく使う「なぜ、今?」という言葉は、非常に何も考えていないというか、思考停止が反映されています。
彼らの頭の中は、世界は「変わらない」ということが前提にあるのでしょうけれど、違います。世界はどんどん移り変わっています。
移り変わるものの中に、変わらないものがある。
いわゆる仏教的な無常観とは、ニヒリズムではありません。
生き物はみな変わることで、その形を保っているのです。
憲法も皇室も存続するために変わるべき。でも、どの方向に、どの程度変えるのか?それが問題だ。
僕はこういう根っこの考え方が、とても大事だと思っています。
政治とかそんな大それたことじゃなくて、自分の生き方そのものに影響してきますから。
令和の研修医(年休取得でおやすみ中)